
| 第19回「現代イスタンブルにおけるアレヴィーのセマー」 2006年2月11日(土) | |
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発表者:米山知子(総合研究大学院大学) 司会:高尾賢一郎(同志社大学) コメンテーター:梶丸岳(京都大学大学院) 発表要旨: 本発表は、イスタンブールのアレヴィーに関する現地調査に基づき、そこで彼らが行う宗教的舞踊(セマー)について、映像を交えながら、その現状について述べたものである。イマーム・アリーを崇拝する彼らのアレヴィーという名は、20世紀前半頃から外国人研究者によって付けられたもので、その概念の規定は明確なものではない。彼らはまた、神秘主義者ハジュ・ベクタシュと彼を始祖とするベクタシュ教団の名に因み、アレヴィー=ベクタシュとも呼ばれる。彼らは「愛ask」と「共有paylasmak」をその基本的理念とし、それを代表、具現するものがセマーである。これは、ハジュ・ベクタシュがその教えの中で、人間愛、平和、また男女の平等などに言及していたことと関連する。 セマーは儀礼ジェムの場において、神への合一を果たす為の実践として行われる。セマーはアレヴィーであれば誰でも行うことが許されるが、一方で、都市部ではセマーの為の教室もあり、その舞踊の技巧や構成は秩序立っている。発表者は今回、イスタンブールで最も古くから活動をしているK協会のセマー教室の活動を追った。K協会では年齢制限や年間スケジュールなどに基づき、儀礼ジェム、練習、公演といった様々な場でセマーを披露している。特に大きな場での公開となると、本来血縁関係を中心としたアレヴィーがその担い手となるセマーに、外国人の参加者も見られるようになった。また信仰の実践としてのセマーが、公開されることをうけ、その技術の優劣にまで言及されるようになった。しかしながらそれが宗教的実践としてのセマーを商品化しているとして、アレヴィー内部からの批判が一部で沸き起こっている。 世俗政策を基本とし、自由経済政策による人口流入の著しいトルコ共和国において、彼らが彼ら自身とセマーをどう位置づけ、それを発信するのかについて、今後更なる調査に基づいて、論考が深められるところである。 コメント: 幾つかの事実確認の他、二つのタームについての概念規定が言及された。一つは発表者が調査対象とした「アレヴィー」、もう一つは発表者がアレヴィーのセマーの現状において一つの変遷として位置づけた「商品化」である。発表者によると、「アレヴィー」は研究者による便宜的表現の域を出るものではなく、幾らか普遍的と思われる特徴はあるものの、それを構築主義的なものとして位置づける方向を現時点では取るのが妥当であるという。そして何をもって「商品化」とするのか、発表においては「観客」がその要素の一つとして提示されたが、基本理念としての「共有」を実践するものとしてのセマーにおいて、観客は「商品化」として位置づけられるに留まらない。従ってそれに対するアレヴィー内部からの本質主義的な批判は、今後トルコ、イスタンブールの社会、経済状況を鑑みながら、更に考察を進められ得る点であると、発表者は位置づける。 一般質疑応答: 事実確認や上述の様な概念規定に関する他、アレヴィーやセマーの対象としての位置関係、またそれへのアプローチに関する幾つかの意見が出た。例えば、彼らと彼らの儀礼は、同地においてどのような社会的役割を担うものであるのか。それ以外の日を学生や会社員として過ごす参加者の行うセマーは、彼らにとってカルチャースクールの如き場であるのか、或いは神聖なる非日常の場であるのか。よりセマーに特化した形で、その拍子の変遷がいかにトランスの理論と関わるのか、また彼らはイスラームと称するものの、しかし部族として捉えることで、ドゥルーズやアラウィー等と比較した後に、より「アレヴィー」というものを明らかにする上で有効な視座を持ち得るだろう、というような意見が交わされた。 発表者の専門はパフォーマンス論である。このフィールドワークを、イスラームの統一と普遍、という社会的事実の範疇には留めず、方法としてのパフォーマンス論からのアプローチが今後より強まることで、民族誌としての価値にプラスアルファを備えた研究になることが今後期待される。(文責:高尾賢一郎) |
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