石谷 治寛(龍谷大学非常勤講師) 2006年6月22日
ものごとが自らを語りはじめる、その究極の地点にたどりつく必要があるわけだ。といってもこのことは、ただ単にものごとがひとりでに語りはじめるということだけを意味しているわけじゃない。ものごとが、現実に存在しているがままの自らを語りはじめるということなんだ。われわれは一本の樹木を見せるときは、その樹木に樹木としてのその樹木の美しさを語らせなければならない。一軒の家を見せるときは、その家に家としてのその家の美しさを、一本の河を見せるときは、その河に河としてのその河の美しさを語らせなければならない。人間と動物についてもやはりそうだ。虎も象も猿も、ギャングや上流社会の女と同じくらい興味深いものなんだ。また逆に、ギャングも上流社会の女も、虎や象や猿と同じくらい興味深いものなんだ(ゴダールT、415-416頁 1 )。
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不慮の事故でジャン・ルーシュが亡くなり、彼が先導してきた民族誌と映像との積極的な関係は問い直され始めている。エドワード・サイード『オリエンタリズム』を経由して、ジェームス・クリフォード『文化の窮状』による批判を端緒とする民族的な表象に潜む西欧中心主義的な眼差しの反省と平行しながら、デジタルビデオ・カメラやノンリニア編集、データベースやGISの普及によって、イメージの記録やその収集・展示の条件が大きく変わりつつある。また調査する主体の眼差しの権力性や素材の評価基準の問い直しだけでなく、博物館・美術館や学校における研究・教育の条件にも根本的な変化が起きている。さらには、ドキュメンタリー作品の流通・批評の基盤整備や関心の高まり、マイノリティーによるパブリック・アクセスの問題など様々な課題が議論されている。本稿は、こうした多様な問題に対して、個々に見解を加える余裕はない。むしろ、映像文化を歴史的に振り返ることによって、民族誌映画の洗練のプロセスと、映像文化が抱えていた問題とが不可分であったことを示唆したい。
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まずは、テレビやコンピュータの画面上に絶えず流れ続ける様々な風土や人々の映像と音とを消して、真っ白のスクリーンを想像してみよう。百年ほど前、白いスクリーンに向かって、様々な民族のイメージが投影され始めた。スペインやメキシコから、ジャワ、アイヌの舞踊まで。リュミエール兄弟が送り出した撮影隊の一向は、世界各国の景観や車窓だけでなく、とりわけ民族舞踊を記録した
2 。だが、都市の住民と様々な民族との「出会い」はこの時に始めてなされたわけではない。民族舞踏やサーペンタイン・ダンスは、ジェロームといったオリエンタリストの画家たちが描いた題材であり、十九世紀を通して万国博覧会における植民地村の展示の中で最大の出し物となり、1889年の万国博覧会においてすでに、多くの人々を惹きつけていた 3。世紀末には、ロイ・フラーの活躍によって、不定形に変化する身体運動によって眩暈のようなトランス状態をもたらす舞踏の魅力は、モダン・ダンスという新しい芸術[ルビ:アール・ヌーヴォー]として西欧固有の表現を得た。ロシアからやってきたニジンスキー率いるバレエ・リュスは、東洋的な民話に着想を得ながら、通りを自動車が走り始めたパリという大都会に、エキゾチスム溢れる衣装と身体運動とをもたらした。黒人女性のジョゼフィン・ベーカーは扇情的なダンスを踊りながら「モン・パリ」を歌い、都市住民の間にはチャールストンと呼ばれるダンスが流行りだす。第一次世界大戦の時代、パストローネの《カビリア》(1914年)であれ、グリフィスの《イントレランス》(1916年)であれ、古代ローマやバビロンを題材にした歴史大作のなかで、女性たちが恍惚と腰をくねらせるダンスは、一方で日常に非日常的な快楽をもたらすものとして人々を魅惑しつつ、他方で野蛮や文明の頽廃の象徴として断罪されてきた。こうして民族固有の文化は、それを培ってきた土地から遠く離れながらも、西欧近代にとっての驚異の対象となるのと同時に、魅惑的な見世物のなかに取り込まれて行った 4。このようなことは現在まで繰り返し行われていることである。ビートルズによるインドの民族楽器シタールとの出会いから、近年のテクノ・ミュージックにおける、アフリカのリズムやアボリジニーのディジリドゥとの出会いまで。映画史家エラ・ショハトが指摘したように、初期映画から人種の表象は見られるが、そこには「西欧中心主義」が常に前提とされてきた。人種のるつぼであるアメリカの戦前の映画で人種の表象が多少なりとも混交的に描かれるのは、ミュージカル映画においてであったといえる 5。
リュミエール兄弟の各地への撮影隊の派遣以来、瞬く間に世界各国で映画産業は発展した。1930年代の人類博物館では、マルセル・モースらの尽力で映画会などが催され、少しずつ民族誌とシネマトグラフの関心は方法論的にも接近していた。周知のようにロバート・フラハティが1920年代に《極北の怪異》(1922年)で、初めてドキュメンタリーとも民族誌とも呼べるような映画を制作してから(ジャン・ルーシュは幼少の頃このフラハティの映画を父親に連れられて観ている)、ジガ・ヴェルトフ(《キノ・プラウダ》1924年)といったロシアの映画作家たちは、シクロフスキーらの「事実の文学」に共鳴しながら記録の方法を先鋭化させ、またジャン・ヴィゴ(《ニースについて》1929年)、ルイス・ブニュエル(《糧なき土地》1932年)らはシュールレアリスムの関心と並行しながら、民衆の文化を撮影した 6。ジョアンヌ・ハースフィールドが指摘したように、セルゲイ・エイゼンシュテインが、徹底的な現地調査を行って撮影した《メキシコ万歳》(31-72年)を最初の本格的な民族誌映画だということもできよう 7。
これらの映画が、西欧文明に対して、エキゾチックな驚異によって抗する戦略に支えられていただけでなく、階級・人種に対する方法論的な自覚については改めて再考される必要があるが、より組織的な展開が出現するには戦後になってからである。
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おそらく、1950年代末――あえて年代を特定するなら1959年――を、民族誌と映画とが切り結ぶ転換点だと見なすことができる。いうまでもなく1959年は、ジャン=リュック・ゴダールによる《勝手にしやがれ》が制作された年として記憶されているが、彼の映画は、他の特記すべき映画の公開の後に制作されたことが思い起こされるべきである。一つはジャン・ルーシュの《私は黒人》であり、もう一つはロベルト・ロッセリーニの《インディア》である。一方はシネマ・ヴェリテの作家の代表的な作品であり、他方は、ネオ・リアリスモの作家が、ヨーロッパの戦後史から、東洋へと眼差しを向け始めた作品である。いずれの作品についても、ゴダール自身が、「カイエ・デュ・シネマ」誌上に批評を寄せており、《私は黒人》については次のように述べている。「ジャン・ルーシュは、自分の名刺に人類博物館配属調査研究員という肩書きを不当に刷りこんでいるわけではないのである。それに、映画作家の定義として、この肩書き以上にすぐれたものがほかにあるだろうか?」(ゴダールT、398頁)。犯罪映画によって華々しくデビューしたゴダールは、その直前に「人類博物館配属調査員という肩書き」を、映画作家のひとつの定義として積極的に肯定している。そして、カイエ誌の批評家であるリュック・ムレも、《勝手にしやがれ》でのゴダールの野心はフランスについてのルーシュになることだと評した 8。シュールレアリスムが活発であった幼年時代には絵を描くことを好み、ソルボンヌ在学中は人類学を専攻していたゴダールは、『親族の基本構造』が発表された1949年にレヴィ=ストロースの講義を聞いているし、マルセル・グリオールの薦めでジャン・ルーシュが1947年から撮りはじめた一連のアフリカの人類学的なフィルムを目にしていただろう。すなわち、1859年という年は、アンリ・ラングロワのシネマテークで育った映画館の子供たち(シネフィス)の巣立ちの時期として感傷的に回顧されるよりも、民族誌映画の到達点であると同時に、ポスト民族誌映画の出発点であったと考えられるのである 9。
民族誌/映画の再考という課題にとって、ゴダールの批評と作品を最検討することは一つの手がかりとなるが、さらにもう一人の人物を思い起こしておきたい。それはエンリコ・フルキニョーニである。彼は、現在でも入手可能なロッセリーニに関する本の序文を書いており、またヴェネチア映画祭に彼の名を冠した賞があるぐらいだから、少なくとも名前だけはよく目にされているといえるかもしれない
10。しかし、彼の活動について言及した論考はこれまであまり見られない。一九五三年にフランス国立科学センター(Centre
National de la Recherche Scientifique)に民族映画部門(Comite
du film ethnographique)が設立されるが、モースの弟子筋にあたるルーシュ、グリオール、アンドレ・ルロワ=グーラン、レヴィ・ストロース、そして映画アーカイヴの創設者ラングロワといった錚々たるメンバーの名に並んでフルキニョーニの名前も見られる。彼は、戦前のイタリアで数本の映画を撮った後(42年の《二人のフォスカリ》I
due Foscari、ミケランジェロ・アントニオーニが助監督)、戦後はイメージの心理社会学に関する研究・教育活動を行い、とりわけ1949年からユネスコの映画部門のディレクターとなり、1955年には、国際映画テレヴィジョン協議会の設立にルーシュとともに関わり、1979年に、芸術・文学創造のディレクターと並行して、映像部門のディレクターを務めた
11。
また、《インディア》の脚本に参加したイラン出身の作家フェレイドゥン・ホヴェイダを、ロッセリーニと引き合わせたのも、二人の共通の友人であったフルキニョーニであった 12。ホヴェイダによれば、ロッセリーニは中東の国々やイスラム文明に関する映画を構想し始めたのは早くとも1954年からであり、《インディア》の撮影後も、イスラム文明に関する企画の構想を続け、1977年の彼の死までホヴェイダとの交流は続いたという 13。ロッセリーニらは、インドでの取材を、映画としてだけでなく、テレビの教育番組としても制作している。ロッセリーニはこの時以来、科学としての映画というメディアの可能性やその教育的役割について積極的に関心をもつようになり、とりわけテレビの可能性に期待するようになった 14。
こうした、ロッセリーニの映画の主題や方法の変化は、同時代のフルキニョーニらによるイメージに関する議論と切り離すことができないように思われる。ルーシュと映画を共同制作したエドガール・モランは、すでに1956年に『映画 あるいは想像上の人間−−社会人類学試論』を発表していたが、この本のなかでモランは、メルロ=ポンティの現象学だけでなく、「国際映画学評論誌(Revue
Internationale de Filmologie)」に掲載された社会学者、心理学者、美学者らの多くの議論を参照しており、1950年代において映画に対して人文諸科学の様々な領域が関心を向けていたことがわかる 15。当時の議論のあり方を、同時代の映画批評だけでなく映画理論誌の展開ともあわせて再検証される必要があると思われるが、現在の著者の手に余る作業となるので今後の課題としたい。少なくとも、1950年代から1960年代にかけて、様々な時代の映画を収集・保存・上映・鑑賞する条件が整い、相当に幅広い映画理論と人脈の厚みが形成され、映画を科学的方法で制作するための基盤が出来上がっていたといえるのである。
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さて、ゴダールの出世作《勝手にしやがれ》を見直してみよう。この映画は、1859年の8月17日から9月15日のあいだ約一ヶ月の撮影期間で制作され、ラウル・クタールによる生き生きとしたロケーション撮影、即興を思わせる自由な演技、都市を生活する生々しい若者たちの群像、そして劇中に実際の映画監督に対するインタビューの挿入などの要素が特徴的である
16。さらに、映画の構成自体は同時代の三面記事が題材とされ、「現実性」も強調されている。ゴダールはこの撮影を振り返り次のように言う。「私は街頭ではいつも、自分が植民地主義者であるかのような・・・・・・自分が、かつてブラック・アフリカで撮影されたヨーロッパやアメリカの映画と同じような映画を撮っているかのような感じを抱いていました」(『ゴダール・映画史』奥村昭夫、41頁)。そしてこの映画のドキュメンタリーとして最も重要な側面は、戦後のパリの「メディア」や「情報」をめぐる様々な側面に関する考察となっている点にあるといえる。ジーン=セバーグ扮する、ソルボンヌ大学に留学に来たジャーナリスト志望のアメリカ人女性は、「N・Yヘラルド」紙を売り歩き、著名な作家のインタビューをしようとしている。こうした物語の本筋とは関係ない映画の細部において強調されるのは、戦後のパリにおけるアメリカのメディアのプレザンスである。
そして特質すべきは、次のシーンである。ジャン=ポール・ベルモンド扮する主人公は、アメリカのスター俳優ハンフリー・ボガートを模倣する青年であるが、彼が警備隊を誤って殺した後、昔の彼女の部屋を訪れ、小銭をくすねるシーンがある。この場面における二人のやりとりを見直してみたい。彼女がラジオをつけると、アメリカのロック・ミュージックが一瞬流れるが、すぐにニュースに変わり、二人の会話が始まる。「何してたの久しぶりね?」「何も、旅をしていた」「街は変わりないか」「知らない」「というと?」「たまに踊りにいくとバカしかいなくて」「映画の仕事は?」「綱渡りはやめたわ。エンリコ思えている?」["おぼえてる"か"思い出す"、思えてるとは言わん]「私、彼のテレビ番組のスクリプターよ」「おれもローマでシケてたとき助監督したよ、チネチッタでな!」。この場面はパリの若者の日常生活とメディアの変容を、象徴する場面であるが、主人公がローマで助監督をしていたこととともに、「エンリコ」の名が思い起こされているのは偶然ではないだろう。ゴダールのテクストのなかでフルキニョーニに対する言及は見当たらないが、ここで語られる人物はおそらくイタリア出身の映画人フルキニョーニであり、ゴダールの映画は、まさに先述した映画環境のなかに位置づけられることが映画のなかでも言及されていると考えることができる。クロード・シャブロルが制作したエリック・ロメールの《獅子座》が公開されたのも1959年のことであるが、この映画の中でゴダールもフルキニョーニも脇役で出演していることを付け加えておきたい 17。
また《勝手にしやがれ》は、警察を中心とした「情報」の流通と統制が主題になっていることが指摘できる。この映画に描かれる犯罪者の追跡劇において、警察はひとつのイメージを頼りに犯罪者の足跡を辿り、新聞によってその情報はリアルタイムに伝えられる。こうした情報の流れにおいて「密告」が重要な役割を担っている。これは、ロッセリーニが《無防備都市》(1945年)でドイツ占領化のローマを舞台に描いた主題であり(またアンリ=ジョルジュ・クルーゾも《密告》(1942年)でドイツ占領下のパリにおける怪文書の流通による市民の混乱を描いたが、これは反フランスのプロパガンダだと見なされ、監督は戦後2年程活動停止とさせられた)、戦中のスパイ映画において繰り返し描かれた、情報の新たな形態を象徴するものであった。戦後において、情報管理から解放されるどころか、それはますます強化されていくだろう。映画のなかで、ド・ゴール政権の軍事パレードという祝祭がフィルムに収められているのは決して偶然ではない。自由フランスから第四共和政を経て、第五共和政への転換期における、警察が統制するイメージと情報の流通をめぐる検証こそ、この映画の中心的な主題になっているといえるのである
18。続くゴダールの作《小さな兵隊》では、アルジェリア戦争における拷問の問題が主題として取り上げられたが、前作で取り上げられた情報と植民地主義の問題への関心は連続しているといえる 19。ゴダール自身、自分のジャンル映画の形を借りた作品群はどれも、「この国の状況についての報告書」であり、「現代の現実と関連されながらとりあつかわれた、現実についての証拠資料となっていた」と述べている(「ゴダールT、678頁」)。
こうしたジャンル映画の姿を借りた作品群を経て、ゴダール自ら「野心的な映画」だという、《彼女について私が知っている二、三の事柄》(1867年)が制作された。この映画は「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌がパリ地域圏の新しい団地で実施された調査の結果と、それに対して主婦売春をすることになった女性読者が寄せた手紙から着想を得て構想された。社会学者レーモン・アロンの産業社会に関する書物から引用され、地方、若者、都市計画、産業化、売春、広告、ファッション、主婦、都市の変化と郊外団地に住む主婦の生態が検証される。ゴダールは、すでに文化省に務める作家ル・クレジオによるインタビューで次のように語っていた。「われわれは今、まさに未開社会のなかで生きている・・・・・・コカ・コーラとかジェネラル・モーターズといったトーテムとか、呪術的な言葉、儀式、タブーといったものに囲まれて生きている・・・・・・形態はかわっていないわけだ」(ゴダールT、670頁)。ここでもゴダールの関心は、オスマンの都市改造以来のパリの大規模な変化とアメリカ文化の進入、そしてそれらの影響に関して、社会学的ないし民族誌的な方法がとられているといえる。ゴダールが映画のなかで強調するのは、メディアと広告がもたらす呪術の効果にも似た催眠的効果である。映画は次のナレーションで締めくくられている。「私はトランジスターでコマーシャルを聞く/エッソのおかげで静かに夢の道を出発しすべてを忘れる/広島、アウシュビッツ、ブタペストを/ヴェトナム、最低賃金問題、住宅難を忘れる/インドの飢饉を忘れる/私はすべてを忘れた。零の地点に戻った/ここから再出発をしなければならない」。
こうした現代生活における情報とイメージというコミュニケーション手段の、文化的・社会的・経済的・心理的影響に関するゴダールの探究は、「処女懐胎」といった宗教的なテーマを扱いはじめた80年代以降においても変わっていない。近年の論者がゴダールの映画のなかに読み込もうとするイメージと信仰の問題は、あくまで、映画作家=民族誌家という観点から検証されるべきであろう。ゴダール自身は自らを非宗教的な人間だとはっきり述べ、次のように語る。「なされるに値する仕事は−−今はまだとてもなされそうにないんだが−−、学者のかたわらで映画のスタッフが映画をつくるということだ。・・・ぼくはある意味でルーシュを大いに称賛したんだが、彼の偉大な力のひとつは、自分のフィクションの映像に社会的探究の映像を混ぜあわせているところにある。・・・ぼくは映画にはひとつの役割があると言いたい。そしてそれは、ひとはものごとをどのように見ているのかを見るという役割だ」(ゴダールU、638頁)。
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1960年から61年にかけてローマ大学で映画学の講義を行った、エンリコ・フルキニョーニの視点はゴダールの関心に隣接しているように思われる。彼も、1964年の著作『イメージの文明』で日常生活に浸透するイメージの技術的かつ呪術的性格について次のように述べている。
フリードマンからギュルヴィッチ(George)やルフェーブルまで、フランスの社会学者の関心は、日常生活に関する調査に取り組み、仕事中の人間、産業のなかの日常的な活動、感情的な関係、ミクロ社会学的な結びつきを考察していた。最も優れた観察者の見解によっても、日常生活は、身振りや行為、無意識の儀礼や儀式、愛や呪術における予期できない存在に関わるものにおいて、いまだ未知である。現代生活が、過去以上に、われわれの身体的な「プリミティヴィスム」、つまり、われわれの精神的なアルカイスムに最も浸透しているものに数えられる力の表れを高める傾向にあることは、十分に強調されていない。
同時代の心理社会学の最も重要な課題とは、若い世代の目に産業文明の世界が浸っているようにみえる拡散して存在する呪術を基盤として探求することである。同様に、われわれの社会に存在する技術や理性を、アルカイックな動機の源泉とみなしながら分析することも重要である。したがってフレーザー、レヴィ=ブリュール、モース、マリノフスキーによって、原始社会のなかに観察されたあらゆる事柄にわれわれは日々の生活で出会っているはずだという驚くべき結論に達する。こうしたアナロジーは、われわれを驚かせるだろう。というのも、同一性が強調されるからではなく、われわれはいかに、技術と呪術の二つの進化を通じて、伝統的な分析方法に関連づけるのが難しい社会的な構造に到達したのかが示されるからである。さて、現代文明における「イメージ」の影響の最も際立った特徴のひとつとは、最も厳密な人類学的な意味において、呪術のメカニズムと同じような、まさしくイメージの効能なのである。他方で、イメージは、われわれの日常生活のほとんどあらゆる活動に影響を与えている。大多数の若者は、遍在するイメージの明白さによって、世界との関係の神秘を奪われている。映画は、日々の生活の一部となる。われわれにイメージを届ける雑誌、われわれが読むおのおののジャーナル、おのおののマニフェスト、おのおのの広告のかたわらに、その証拠があるのだ(Enrico
Fulchignoni, Traduit par Giuseppe Crescenzi,
La civilisation de l'image, Payot,
1969,
p.43)。
ヴァルター・ベンヤミンは、一九三〇年代に複製芸術論で、最古の芸術作品は「最初は呪術の儀式に、のちには宗教的な儀式に」用いられていたが、複製技術の登場によってその礼拝価値は展示価値へと変わったと断じることで、映画を象形文字や夢といった超自然的なものと比較しようとするアベル・ガンスらの言説を反動的だと批判しながら、映画資本の促進するスター崇拝を警戒し、映画の別の可能性に賭けようとしていた。だが、戦後一九六〇年代の社会学者や映画作家にとって、現代が特徴づけられるのは、いっそう強力になる呪術的性格をもったイメージの世界としてであった。フルキニョーニは、ステレオタイプを同時代の主要な問題とみなし、この原因を次のものに求めている。一つめは、集団的成員の大部分と直接的にコミュニケーションすることができる、ラジオ、映画、テレビといった巨大な情報というカテゴリーによってであり、二つめは、プロパガンダの技術的経験ののちに形成された、単純化、反復、メッセージの条件づけなどといった心理的な技術の総体によってである(Fulchignoni,
p. 19)。そして彼は、十九世紀から現われ始める余暇の増大について指摘しながら、民衆文化とエリート文化の区別がなくなり、同質化してきたことを指摘している。これらは「中間文化」と呼べるもので、次のように定義される。a)社会理念、概念、価値の全体、いわゆる人類学的な意味での社会 b)権威的な芸術の流布、思考・知的体系の様態、c)古いエリート文化の名残り、d)大衆の情報手段による産物を生み出し消費するブルジョワジーとプチ・ブルジョワジーの芸術、e)情報と呼ばれる手段に備わる内容と価値、f)近代の情報手段に由来し社会の総体のなかに含まれる意見や価値、である(Fulchignoni,
p. 52-53)。こうした観点から、喜劇や恐怖の心理学、近代の演劇や古代の仮面劇、造形芸術の問題などイメージに関する様々な問題が、古代から西欧の演劇を経由して現代の映画まで、エリート文化と民衆文化といった区別なしに領域横断的に検証されることになる。本書ではまた、科学映画やドキュメンタリー映画におけるインタビューの方法論的問題や、新たな博物館の役割に関する指摘がなされていることも付け加えておきたい。
現在の情報環境において彼の議論がいまだ有効かどうかはともかくとして、少なくとも六〇年代末までに、心理学、社会学から人類学、美学、映画学までイメージの扱いに関する問い直しがなされていたことを振り返っておくことは無駄ではないだろう。英米圏でも、1970年代からコリン・ヤングを中心として民族誌映画の教育活動が進んでいった背景には、フルキニョーニを中心としたユネスコによる記録的・教育的目的による映画の普及・推進の活動が背景にあったといえる 20。他方で、六〇年代までに、シュールレアリスムが広告の源泉となり、ポップアートがそれをさらに戯画化したことに象徴されるように、社会はマス・カルチャーが生み出すイメージに覆いつくされた。こうした認識の中から、ギー・ドゥボールのように「スペクタクル」をラディカルに全否定する思想や、ジャン=ボードリヤールのようにイメージを真実なきシミュラクルと捉える議論が影響力をもった。また、70年代にはイメージの解釈に関して、記号論と精神分析学を用いて、広告や映画文化に潜むメッセージの分析が優勢になっていく。だが、むしろ現在必要なのは、社会の欲望を構成し、社会のヒエラルキーや衝突を生み出しているイメージの技術や科学に関する歴史的考察ないしは社会的・心理学的・生物学的に構成される身体技法に関する人類学的考察であり、また、われわれが生きている社会や世界を新たに考えるためのイメージを用いた方法の探究である。エンリコ・フルキニョーニは、イメージを思考の条件だと捉えることで、イメージの教育が批判的知性を身につけるために必要不可欠なものだとみなした。「限りないほどの豊かさのもとで、新たな偶像破壊から免れて、数々のイメージが、知性に圧迫を与えることをいまだ期待できる。この圧迫は、反省の出発点であり、凡庸な感情に変質した力から、自らを守っている。ある人が言ったように、無秩序の時代、「反抗的な人々」の時代には、批判的な反省と概念的な思考が、かつてないほど求められるのだ」(Fulchignoni,
p.86)。
ジャン=リュック・ゴダールは、68年5月の影響を振り返り、「情報伝達は映画を通してだけでなくテレビを通してもまたなされているということを考慮しながら、自分の活動を情報伝達全般に向けて拡張しようとしたところにあった」と述べたが(「ゴダールU、p.178)、フルキニョーニ、ルーシュ、ラングロワらも、1969年にナンテールのパリ第10大学とソルボンヌに、映画の学科の設立にも尽力した。こうした背景には、スーパー8によるカメラの低価格化というテクノロジーの影響だけでなく、同時代のメディア環境に対する幅広い理論的基盤があったことはもう一度検証されるべきである 21。
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ハリウッドやヨーロッパ以外の国々において、エジプト、メキシコ、インド、アルゼンチンなどでも、リュミエールの到着以来、伝統的な映画産業が育ったが、1960年代に入ってからは、植民地主義との関係が問われ始めるようになってきた。そして、近年の経済や環境の危機に基づいて、自然資源の保護の目的で原住民の人々が描かれる傾向も増してきている。あるいは、1950年代から1960年代には、ペルーやボリビアなどでも、現住民自身とコラボレーションに基づく、ドキュメンタリーとフィクションの混合した映画も撮られ始めた 22。エラ・ショハトとロバート・スタムも指摘しているように、近年のドキュメンタリー映画が問いかけているのは、いかに「他者」を表象するのかではなく、いかに共有の空間で「他者」と協力できるのかに変わってきている。かつての民族誌映画が、科学的なナレーションによって、返答できない従属的な人々の「真実」を届けたとするならば、新たな民族誌映画は、「共同の映画制作」や、「役割分担に基づく制作」、「対話的人類学」、「反省的な距離」、「相互的な映画制作」のための努力を行っている。そして、近年の最も際立った展開は、視聴覚技術を用いた「現地メディア[indigenous
media]」や、ビデオ制作や編集の教育やテクノロジーを提供する団体が組織化され始めてきたことにもある 23 。さらには、DVDやハイパーテクストを利用した、マルチメディア的な民族誌の模索も試みられ始めている。また、美術批評家ハル・フォスターが、80年代以降の多文化主義や、作家固有のアイデンティティを強調する現代美術が、「民族誌家としての芸術家」という側面が強まったと述べたように、美術館やギャラリーにおいてビデオなどを積極的に用いられるとき、芸術家たちの問題意識は、民族誌が直面している新たな問題に接近している。
さて、植民地戦争における、北と南の関係、撮影するものと撮影されるものとの関係を、映像の領域で鋭く問い直し始めたのもまた、ゴダールを含む、ヨリス・イヴェンス、アラン・レネ、クリス・マルケルといった映画作家たちであった。彼らは、ヴェトナム戦争のときに共同で《ヴェトナムから遠く離れて》(1967年)を制作し、ゴダールはさらに、パレスチナにまで向かった(《こことよそ》1975年)が、彼らの共同監督という方法はエリア・スレイマンをはじめとしたアラブ出身の映像作家たちが戦争とメディアの関係を問い直す試み《湾岸戦争、その次は?》(1991年)にも引き継がれていく。そしてサラエヴォでジャーナリスト、詩人、作家、映像作家たちが一人の通訳を介しながら語り合う、ゴダールの《アワーミュージック》(2004年)は、エリアス・サンバールというパレスチナの歴史家とゴダールとの長年の交流の成果となっている 24。こうした映画が常に問いかけてきたのは、いかに他者を記録するのかという問題だけではなく、様々に異なる状況に置かれた人々がいかに自らを語りうるのかという問題なのである。
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最後にロベルト・ロッセリーニの《インディア》に簡単に言及してからこの稿を終えたい。著者は、4時間に及ぶテレビ版も見ることができていないし、90分程の映画に様々な要素が緻密に織り込まれている、この途方もない映画について十分に語り尽くす言葉をまだもっていない。映画は、車が騒音をたて、高層ビルが立ち並ぶボンベイの街を、「大河の流れを思わせるように」行き交う、群衆の服装や身振りを観察するところから始まり、ストリート文化、近代的建築から歴史的・宗教的建築物が、簡潔なナレーションとともに、素早いカットで10分程の間にモンタージュされる。そして映画は自然環境や村落の空間へと移動していく。この映画で描かれるのは、象使いや猿使いといった動物を利用した労働やエンターテインメント、そして、ダムの建設や、鉱床調査に伴う野生の虎の凶暴化(森から逃げそびれたハリネズミを虎が襲い、傷ついた虎が人間を襲いだす)といった人間と自然環境との闘いであり、都市から山林まで文明の総体が断片によって示唆される壮大な試みになっている。
とりわけ、強烈なインパクトを受けるのは、ダムのエピソードである。ダムの完成後、一帯の森は人造湖の中に沈んだ。映画では、建設に従事しこの場所を離れようとしている一労働者の視点を通して、3万5千人が働いた建設現場の風景が描かれる。この一つの場面では、張り巡らされる電線のカットがあり、次のようなナレーションが語られる。「この電気というもの、まるで魔術です。だが簡単に説明がつきます。魔術でもない。奇術でもない。魔法でも神秘でもなく科学なのです」。そして、カメラのパンによって、丘に並べられた巨大な文字群「HIRAKUD
DUM」が映され、次に一列になって石を運び出す人々の姿が画面に広がる。「誇らしげなその響き!だがそれはこうして土や石を運びつくられたのです、心をこめて」。この場面によって、もう一つの神話的な森の光景が喚起されてしまうのは私だけだろうか?すなわち「HOLLYWOOD」である。そして、労働者が一列に並ぶ姿は、ハリウッドで同時期に制作された別の映画の場面とも比較できる。ハワード・ホークスの《ピラミッド》(55年)には、巨大墓地の建造にたずさわる奴隷の姿が描かれた。ウィリアム・フォークナーも脚本に加わったこの映画では、古代エジプトを舞台に、巨大な公共事業の実現が物語られている。1950年代半ばからテレビによる映画観客の減少に対抗して、シネマスコープの巨大なスクリーンに見合う超大規模の歴史スペクタクルが次々と制作されたが、ホークスの映画もその一つであった 25。この映画がきわめて興味深いのは、エジプトのピラミッド建設が、まるで国家社会主義の独裁制を思わせもすれば、肥大化したハリウッドでの大規模な映画制作を思わせもするところにもあり、さらにピラミッドの建設が終わると奴隷は解放され、別の土地に向けて旅立つ 26。この映画を、ロッセリーニの映画の一場面と比べるならば、絵空事のような古代の出来事は、あたかも同時代の別の風景にもぴったりと重なっているようだ。ロッセリーニの映画では、先のエピソードの主人公は、ダムを去るときに、自分の存在の記録を残すために、石に次の言葉を書き記す。「私デビ・カクラバディは妻と共に、パキスタン分離によって東ベンガルより追われ、この地に安住の地を求めた。わが子ここにて誕生。さらに壮大な建設を求めてこの地を去る」。戦後の世界秩序の現実において、こうした公共事業はどれだけ建造されたのだろうか、そしてどれほどの労働者の経験が記録され記憶されているのか
27。
フィクションがドキュメンタリーのイメージに基づいて制作されるとすれば、ドキュメンタリーもフィクションからそのイメージを借りる。1950年代の批評や映画作家がイメージに関する新たな問いを発したのはこの点にあった。本稿では1859年を軸とする映像文化の転換のほんの一端を指摘できたに過ぎない。フィクションのイメージの批評と、イメージで現実を語る方法の模索とが渾然一体となった1950年代から1960年代の映像文化は、現在のメディア環境を考えるためにも、いまだ豊かな源泉といえるのである。
註
1
ゴダールの発言については主に次を参照。アラン・ベルガラ編『ゴダール全評論・全発言〈1〉1950‐1967』奥村昭夫訳、筑摩書房、1998年。アラン・ベルガラ編『ゴダール全評論・全発言〈2〉1967‐1985』奥村昭夫訳、筑摩書房、1998年。
2
リュミエール兄弟のフィルム目録に関しては、映画上映100年の記念上映のパンフレットを参照。
3
ジェロームに関するリンダ・ノックリンの論考は、美術史においてオリエンタリスムの問題を考える端緒となった。ノックリン『絵画の政治学』坂上桂子訳、彩樹社、1996年。
4
ジャン・ルーシュは17歳の頃、パリでルイ・アームストロングらのジャズコンサートの催しに参加している。
5
Ella Shohat and Robert Stam, Unthinking
Eurocentrism:
Multiculturalism and the Media, (London:
Routledge, 1994), p.292. チュニジアの独立時、植民地宗主に仕える女の娘の視点を通して描いた、ムフィダ・トゥラトゥリの《ある歌い女の思い出》(1994年)は、アラブのポップ・ミュージック歌手に対するオリエンタリズム的な眼差しを批判的に検討した傑作である。
6
ロシア出身の画家ワシリー・カンディンスキーが、もともと人類学者であったことは重要である。彼は、ロシアの民衆版画を収集し、地方に美術館を建てる構想を抱いていた。20世紀初頭における北方のネオプリミティヴィスムの流れは、彼の歩みに並行している。ロシア・アヴァンギャルドの時代の芸術論やフォルマリスムの言語学には、人類学の方法が浸透している。シュルレアリスムと民族誌的方法に関しては、クリフォードによる「民族誌的転回」以後、多くの研究が現われた。シュルレアリスムの方法論について再考した共同研究は次。鈴木雅雄・真島一郎編集『文化解体の想像力―シュルレアリスムと人類学的思考の近代』、人文書院、2000年ヨーロッパの人類学の歴史に関する総合的研究は次。竹沢尚一郎『表象の植民地帝国―近代フランスと人文諸科学』、世界思想社、2001年。植民地博覧会とシュルレアリストの芸術家たちの関係については次を参照。パトリシア・モルトン『パリ植民地博覧会―オリエンタリズムの欲望と表象』長谷川章訳、ブリュッケ、2002年。戦前のドキュメンタリー作家のなかでも、ヨリス・イヴェンスの歩みは興味深い。シュルレアリスムの環境の中、映像詩的な作品《雨》(1929年)を制作した後、スペイン内戦についての映画《スペインの大地》(1937年)から戦地に赴く。1955年には《世界の大河は一つに流れる》では、音楽にシュトイコヴィッチ、挿入歌の歌詞にブレヒトが参加し、パンフレットの表紙をピカソが描き、ヴォルガ、ミシシッピ、ガンジス、ナイル、アマゾン、揚子江の六つの大河沿岸の民衆の姿が溌剌と記録されている。その後、ヴェトナム戦争時のヴェトナムに訪れ(《北緯17度》1968年)、中国でも取材を行う。イヴェンスについては山形映画祭の特集上映のパンフレットを参照。
7
Joanne Hershfield, Paradise Regained,
Sergei
Eisenstein's Que viva Mexico! as Ethnography,
in Documenting the Documentary, p.55.
8
Colin MacCabe, Godard: A Portrait Of
The
Artist At Seventy, Faber & Faber,
2005,
p.37.
9
次はヌーヴェル・ヴァーグに関する資料がまとまっている。遠山純生・細川晋編集『ヌーヴェル・ヴァーグの時代―1958‐1963』、エスクァイアマガジンジャパン、1997年。
10
ロッセリーについてのフルキニョーニの序文は次を参照。Michel
Serceau, Roberto Rossellini, Paris:
Ed. du
Cerf, 1986.
11
フランス国立科学センター民族映画部門やユネスコの国際映画テレヴィジョンの歴史については、それぞれ次のウェブ・サイトを参照(
http://www.unesco.org/iftc/ ) ( http://www.comite-film-ethno.net/
)。
12
ホヴェイダは、1953年からユネスコのマス・コミュニケーション部門で働き、アンドレ・バザンとフランソワ・トリュフォーの誘いで、「カイエ・デュ・シネマ」誌に、フィクション映画に関する月一回の批評を連載した。
13
以下のウェブサイトのリンクから、ロッセリーニのイスラム文明に関するドキュメンタリーの構想に関する回想録を読むことができる。フェレイドゥン・ホヴェイダは後にイランの外務大臣になるが、1977年のイラン革命まで首相を務めたアミール・アッバース・ホヴェイダの弟であり、このサイトでは、彼の兄弟に関する文章が掲載されている
( http://www.hoveyda.org/links.html
) 。
14
ロッセリーニの晩年のメディアに関する見解については彼のインタビューを参照。アドリアーノ・アプラ編『ロッセリーニ
私の方法―映画作家が自身を語る』西村安弘訳、フィルムアート社、1997年。
15
エドガール・モラン『映画 あるいは想像上の人間−−社会人類学試論』渡辺淳訳、法政大学出版局、1983年。たとえば、美学・美術史家のなかには、エチエンヌ・スーリオやエリ・フォールらの名前が並んでいる。
16
《勝手にしやがれ》について、蓮実重彦は別の観点から次のように論じたことがある。「ここでもっともらしくマルセル・モースに触発されたレヴィ=ストロースの女性交換の法則などを持ち出して、いま一つの交換体系である金銭との関係においてフェルディナンの潜在的欲望に一定の方向を与えようとは思わないが、ただぜひとも指摘しておかねばならないのは、いわゆる女性一般、金銭一般の論理、つまり体系としての異性関係、富のあり方に向けるべき彼の視線が、きわめて偶発的なパトリシアとの遭遇、あるいは現金化しえない一枚の小切手への苛立ちによって如何ともしがたく混乱しているという事実である」。『映像の詩学』、筑摩書房、2002年、445頁。
17
ロメールもまたルーシュの映画を称賛した批評家の一人である。エリック・ロメール『美の味わい』梅本洋一・武田潔訳、勁草書房、1988年。
18
ゴダールが、パリを再び描きながら、フランスのレジスタンスの経験と現代メディアの問題について再考したのは《愛の世紀》(2001年)である。
19
ショハトは、映画におけるアルジェリアの表象とフランツ・ファノンの思想とを関連づけて考察している。Ella
Shohat and Robert Stam ed., Multiculturalism,
Postcoloniality and Transnational Media,
Rutgers Univercity Press, 2003.
20
コリン・ヤングに対するインタビューを参照。"The
origins of observational cinema: conversations
with Colin Young", in Beate Engelbrecht,
ed. Memories of the Origins of Visual
Anthropology.
Frankfurt, New York, Bern, Brussels:
Peter
Lang, 2003.
21
民族誌映画の設立におけるルーシュの役割については、以下のルーシュの追悼記事を参照。"CINE-TRANCE:
A TRIBUTE TO JEAN ROUCH(1917-2004)",
American Anthropologist, Vol. 107,
No. 1,
2005, pp. 108-129. 後にゴダールは映画の撮影カメラに関する考察を行い、35ミリ・カメラの制作の技術者との対話を行っている(ゴダールU、441-529頁)。また小川紳介は、使っていたナグラという録音機が、ゴダールの機械の中古であったことに触れながら、撮影機材について述べている。小川紳介『映画を獲る』山根貞男編、筑摩書房、1993年、101頁。
22
ホルヒ・サンヒネスのウカマウ集団については日本でも積極的に紹介されている。
23
Shohat, op. cit., pp.
24
サンバールは、1969年からゴダールと知り合い、《こことよそを》撮影したときのコーディネータを務めた。その時の様子は次を参照。「パレスチナを撮るゴダール」安川慶治訳『ゴダールの神話』、現代思想、1995年。ここでは、ゴダールがフェダーイたちにビデオ・カメラを送っていたことにも触れられている。サンバール自身も十九世紀初頭以来のパレスチナ人に関する写真を収集し、その歴史を再構成する試みを発表したばかりだ。Elias
Sanbar, Les Palestiniens, la photographie
d'une terre et de son peuple de 1839 a nos
jours, Hazan, 2004. 近年のサンバールとゴダールとの対話においても、ゴダールはヌーヴェル・ヴァーグの経験は、ルーシュによるドキュメンタリーとフィクションの見直しから始まったことが強調されている。「ポリティック」誌のウェブ・サイトを参照。http://www.politis.fr/article940.html。「イスラエル人はフィクションを再発見し、パレスチナ人はドキュメンタリーのなかでつまずく」。
25
この時期に多くの監督たちが、歴史的スペクタクルを制作せざるを得なかったハリウッドの映画産業の構造的要因については次を参照。蓮實重彦『ハリウッド映画史講義―翳りの歴史のために』筑摩書房、1993年。
26
ハワード・ホークスは1950年代半ばからフランスの批評家に称賛され始め、《ピラミッド》の公開の後に、ジャック・ベッケル、ジャック・リヴェット、フランソワ・トリュフォーによるインタビューを初めて受けた。ホークスの映画は、御伽噺のように纏められているが、リアリズムを追及した作家である。彼はヘミングウェイやロバート・キャパ(二人ともスペイン市民戦争の勇士である)に共感を示していた。他方で、近代の科学や機械の美と狂気の二面性を浮かび上がらせている。映画の主人公の多くが科学者やエンジニアであるのは偶然ではない。エクアドルで、郵便を運ぶ飛行士たちを描いた《コンドル》の準備にあたって、ホークスは現地で出会った人々とのメモから映画のディテールを練り上げた。また《ピラミッド》では、エジプトの考古学者に助言を仰ぎ、石棺を密封するために砂の流体力学を応用するアイデアを導き出した。ちなみにロケは「イスラエル側に直接、荷担する」人間を撮影の仕事に引き入れないことが条件に、エジプトで行われ、室内シーンはローマの撮影所で行われている。トッド・マッカーシー『ハワード・ホークス―ハリウッド伝説に生きる偉大な監督』高橋千尋訳、フィルムアート社、2000年、581-621頁。この映画は、失敗作と断じられているが、設計士は自分の民族の解放と引き換えに設計に手を貸し、最後に「出エジプト」を思わせる挿話で締めくくられる点はきわめて興味深い。ナセル政権は、顎鬚を生やした設計士と抑圧された部族の描き方は、ユダヤ人がピラミッドを設計したことを伝えようとしているということで、国内での上映を禁止したが、映画は、設計士をクシャイトの捕虜としており、必ずしも聖書を起源にしない特異な物語となっている。文明史家ルイス・マンフォードが、ピラミッド建築に象徴される古代エジプトの社会体制を、近代の機械文明と重ね合わせながら「巨大機械(ルビ:メガ・マシーン)」と名づけ批判したのは、1960年代末になってからであり、エジプト文明について語る箇所では、アメリカのヴェトナムに対する蛮行が厳しく批判されている。ルイス・マンフォード『機械の神話―技術と人類の発達』樋口清訳、河出書房新社、1990年。「不安が呪術的犠牲による宥和を招き、人間の犠牲が人間狩りの襲撃となり、一方的な襲撃が敵対する権力の間の武器による相互の戦いに変わった。そこで、ますます効果的な武器をもった人々が、ますます多くの恐ろしい儀式に引き入れられ、そして、最初はまねごとの犠牲への偶発的な序曲であったものが、大量に行われる「最高の犠牲」となった。この観念的な逸脱は、軍事機械の完成に決定的な貢献をした。というのは、戦争を遂行し、集団的な人間犠牲を強いることができる能力は、歴史を通じてあらゆる最高権力を確認する印であったからである」(317-319頁)。
27
ヴェルトフは、《レーニンの三つの歌》(1934年)でダム建設のエピソードを撮影している。これは、共産主義による諸民族の統一の成果として象徴されている。ソヴィエトにおけるレーニンからスターリンの体制への移行期に巨大ダムのイメージは現われる。
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