2007年トルコ総選挙におけるMHPのアレヴィー票と「トルコ主義」

―ピール・アフメット・エフェンディ追悼祭を通して―

若松大樹(上智大学大学院博士課程) 2008430

 

 私は,トルコ共和国のアレヴィーと呼ばれる人々の民族誌的研究,特に聖者崇敬とそれに結びついているOcakと呼ばれる地縁・血縁集団における,婚姻体系の調査を中心に行っている。

 私が主にフィールドとしているのは,アナトリア西部のキュタフヤ県である。キュタフヤ県と言えば,アレヴィーの人々が少ないまたは全く住んでいない県として,トルコの人々には認識されている。しかしながらキュタフヤには,これまでの研究が明らかにしている通り,アレヴィーの人々が多く住んでいる[Öz, 2006: 42]。

 20076月上旬頃,私はアレヴィーの人々の尊敬を集める,ピール・アフメット・エフェンディ(Pîr Ahmet Efendî, ?-1570)という聖者の追悼祭が,キュタフヤ県中央のソフチャ村(Merkeze bağlı Sofça Köyü)行われ,全国各地からアレヴィーの人々が巡礼に訪れ,式典に参加した。近年では,トルコ各地あるいはEU諸国などにできたアレヴィーの人々による文化協会(Kültür Derneği)が,様々な形でアナトリアで行われる聖者の追悼祭に関わってきているが,このピール・アフメット・エフェンディ追悼祭においても,各文化協会が自分たちの主張を繰り広げる場としての様相を呈している。私が参加した2007年の追悼祭では,文化協会だけでなく,各政党も,いわゆる「アレヴィー票」獲得のために凌ぎをけずった。

 特に顕著なのは,これまでアレヴィーの人々に対して侮蔑的ともとられる態度をとってきた民族主義者行動党(Milliyetçi Hareket Partisi,以下MHP)が,2007722日に行われたトルコ総選挙のために,従来の党の理念を180度方向転換し,「トルコ主義」を梃に「アレヴィー票」獲得に乗り出したことである。

 このエッセイでは,そのMHPの「アレヴィー票」獲得戦略を,彼らの主張する「トルコ主義」が,アレヴィーの人々に対してどのように訴えかけているのか,そしてアレヴィーの人々はそれに対してどのような感情をいだいているのかを,聖者追悼祭におけるMHPの選挙活動を事例にして述べていく。

アレヴィーとスィワス事件

 アレヴィーの人々,政治的には左派政党,つまり共和人民党(Cumhuriyet Halk Partisi,以下CHP,そこから分離した民主左派党(Demokratik Sol Partisi,以下DSP)を支持してきた。オスマン朝時代,アレヴィーの人々は多数派であるスンナ派から異端視され,迫害されてきた歴史を持っており,そのオスマン朝を倒したトルコ共和国建国の父,ムスタファ・ケマル・アタテュルクの創設した共和人民党を支持する傾向が非常に強い[Jongerden 2003: 84, Güler 2008: 199-204]。したがって,MHPに代表される民族右派政党や,現在政権与党を担っている公正発展党(Adalet ve Kalkınma Partisi,以下AKP)を支持するアレヴィーはほとんどいないと言って良い。

 さらにアレヴィーとスンナ派の対立が激化した事件が,スィワス事件である。この事件は,199372日にスィワスにおいて行われた,アレヴィーの人々にとっては重要な聖者,ピール・スルタン・アブダル(Pîr Sultan Abdal 1480 - 1550)の追悼祭に集まったアレヴィーの知識人,作家などが,極右支持者たちによって焼死させられた事件である。これによって37人(一説には33人)のアレヴィー知識人たちが殺害された[Shankland 2007: 365-366]。

 したがって,極右政党であるMHPに対しては,アレヴィーの人々は憎悪とも呼べる感情があり,支持をするどころか敵対すらしている。

 

政治的背景

 しかしながら,2007年トルコ総選挙の選挙活動において,そのMHPがアレヴィーの人々に対して方向転換した理由は,一体なんなのであろうか。それは,アレヴィーの人々が支持してきたCHPの弱体化と,現党首のデニズ・バイカルのアレヴィーの人々に対する失言であろう。

それによって,従来CHPの支持母体の1つとなってきたアレヴィーの人々の票を食いちぎるべく,各党は凌ぎをけずることになった。特にMHPは,過去にアレヴィーの人々との間に苦い対立の歴史があるだけに,その戦略は困難を極めた。その苦い対立の歴史を払拭するべく,MHPはトルコ主義をアレヴィーの人々に再び訴えかけることによって,アレヴィー票獲得に乗り出した。

 とは言うものの,アレヴィーに対して批判的であったMHP支持者を納得させ,アレヴィーの人々の票を獲得する作業は困難であったから,MHP自身が表立ってアレヴィーの人々に直接訴えかけることは,選挙活動前半には行わなかった。まず,MHPが目を付けたのは,アレヴィーの最大の文化協会であるジェム基金(http://www.cemvakfi.org/)である。MHPはまず,アレヴィーの信仰を「真のトルコ人のイスラーム(Öz Türk İslâm)」と位置付け,アレヴィーの人々に影響力の強いジェム基金総長,イッゼッティン・ドアンに働きかけ,MHP支持を呼びかけさせた(http://www.hurhaber.com/news_detail.php?id=64551)。

これに対して多くのアレヴィーの人々は消極的であったが,やがてジェム基金を通じてアナトリア各地で行われる聖者追悼祭へも,MHPは積極的に参加していく。ジェム基金だけでなく,MHP支持者が強力に支援するガーズィー大学トルコ文化・ハジュ・ベクタシ・ヴェリ研究センター(アンカラにある。http://www.hbektas.gazi.edu.tr/portal/html/)の支援も得ながら,対アレヴィー選挙活動を開始した。

 

「真のトルコ人聖者」ピール・アフメット・エフェンディ

 ピール・アフメット・エフェンディの廟は,キュタフヤ県中央ソフチャ村にあり,アレヴィーの人々の崇敬を集めている。彼はハジュ・ベクタシ・ヴェリの子孫であるとされ,また同時にベクタシから精神的な教えを受けているとされる。

 ハジュ・ベクタシ・ヴェリは禁欲主義者であり,生涯妻を娶ることがなかったが,彼が残したとされる数多くの奇蹟の1つとして,メリコフの研究に次のようなことが言われている[Mélikoff, 1998: 79-80]。

 

「カドゥンジュク・アナ(ハジュ・ベクタシ・ヴェリの身の回りで洗濯などをしていたとされる女性)は、彼(ベクタシ)が浸かった風呂の湯を飲むことを日常としていた。ある日,その湯の中に彼の鼻血が3滴混じっており,それらを一緒に飲んだところ,彼女は3人の子を孕んだ。1人は夭逝してしまったが,ハビーブとフズル・ラーレという2人の子どもが生き残った。」

 

 このカドゥンジュク・アナは,しばしばアレヴィーたちの間でハジュ・ベクタシの妻であったとされているが,実際は彼は彼女を娶ってはおらず,したがってピール・アフメット・エフェンディはこの奇蹟から生まれた子供の子孫ということになっている。またこれは,フィールドで調査した人々の多くが認識しているところでもある。

 ハジュ・ベクタシ・ヴェリは,中央アジア・ホラサーン地方からアナトリアにイスラームの正しい教えをアナトリアに広めにやってきたトルコ人であるとされ,「トルコ的イスラームの真髄」を体現しているとされている。毎年8月中旬には,中部アナトリアのネヴシェヒル県ハジュベクタシ村において,彼の追悼祭が盛大に催され,トルコ各地,ヨーロッパ各地から巡礼者が訪れることは良く知られている[Massicard 2003]。

 したがってピール・アフメット・エフェンディの「聖性」は,このハジュ・ベクタシから伝えられたものであり,「真のトルコ人の聖者」として人々に認識されている。MHPはこの「トルコ性」に働きかけ,アレヴィー票獲得のための材料とした。

 

追悼祭

 ソフチャ村は,キュタフヤ中心部からくるまで40分ほどの所にある。追悼祭前日から,トルコ各地から巡礼者が村のあちこちでテントを張り,野外で食事を準備し,また屋台なども立ち並んで,普段は30世帯ほどの小さな村が,足の踏み場もないほど大混雑となっていた。また,チンゲネとよばれる流浪の人々があちこちに屯しており,物乞いをしていた。彼らもほとんどがアレヴィーである。

 そうした中,祭は前述したガーズィー大学の研究所に所属する研究員の挨拶から始まり,セマーと呼ばれる舞踊が始まると,各村や各文化協会によって派遣された舞踊団が,中央のステージで舞い始める。デデと呼ばれる導師の指揮下で,サズや太鼓のリズムに合わせて輪になって舞う舞踊団もいれば,縦に35列くらいに並んで舞うものもおり,舞踊の形態や音楽は様々であったが,4代カリフ・アリーの殉教を悼む内容の詩やハジュ・ベクタシ・ヴェリを賛美する歌が歌われた。

 一通り儀礼が終了すると,2007年トルコ総選挙で候補者となっている人々の演説が始まり,中でもCHPの候補者が出てくると,ひときわ拍手が沸いたが,この追悼祭に多額の資金を提供しているのがMHPとそれに付随するガーズィー大学であるところから,人々は好意的にMHP候補者の演説に耳を傾けていた。ただ,述べている内容はひたすら「トルコ人」の素晴らしさと,聖者の「トルコ性」を繰り返すものであった。

 人々のこのMHP候補者の演説について聞き取りを行ったが,ほとんどの人々が好意的に見ており,先に述べたスィワス事件のことは話題にも上らなかった。しかしながら,政権与党のAKP候補者が演説をするなり,あちらこちらからヤジが飛び交い,候補者は演説の途中で舞台から降りてしまった。ヤジの内容は,「イスラーム主義者は帰れ!」「シャリーア屋(Seriatçı)は出て行け!」といったものであった。このAKPの候補者についても聞き取りを行ったが,人々が口にするのは,彼ら(AKP)はアラブのイスラームをトルコに広げようとしているといった内容が多かった。

 

MHP躍進

 2007722日に行われた選挙結果であるが,今までAKPの牙城と言われてきたキュタフヤ県において,MHPの議員が1人当選を果たした。前の2002年総選挙では,6人の定員中,6人全てがAKP議員で占められたのに対し,2007年の今回の選挙では,キュタフヤ県ではMHPが躍進した。トルコ全体からすると,AKPは前回の選挙より票を若干落としているので,キュタフヤでもこうした結果になったといえるかもしれない。

http://www.akparti.org.tr/secimsonuc.asp

前回の選挙では,MHPは議席を持つために必要なトルコ全体の12%の得票を得られなかったため,票は獲得しても1議席も取れなかった。しかし,今回の選挙ではこの12%の得票を得られたため,得票数順でキュタフヤから1人の議員をアンカラへ送り出すことを得た。

今回の選挙におけるMHPの躍進の陰には,このアレヴィー票をもぎ取る戦略が,少なからず影響しているのではないであろうか。

 

以上

 

≪参考文献≫

 

Güler, Sabır (2008) Aleviliğin Siyasal Örgütlenmesi: Modernleşme, Çözülme ve Türkiye Birlik Partisi, Dipnot Yayınları: Ankara.

Jongerden, Joost  (2003) “Violation of Human Rights and the Alevis in Turkey,” Paul J. White and Joost Jongerden (eds.), Turkey’s Alevi Enigma: A Comprehensive Overview, Brill: Leiden 71-92. 

Massicard, Elise (2003) “Alevism as a Productive Misunderstanding: Hacibektas Festival,” Paul J. White and Joost Jongerden (eds.), Turkey’s Alevi Enigma: A Comprehensive Overview, Brill: Leiden 125-140.

Mélikoff , Irène (1998) Hadji Bektachi un Mythe et ses Avatars:Genès et évolution du soufisme populaire en Turquie, Brill: Leiden.

Öz, Baki (2006) “Tarih Boyu Aleviliğin Yokedilişi ve Asimilasyona Direnen Kütahya,” Turgut Öker (ed.), Alevilerin Sesi  96/6, Almanya Alevi Birlikleri Federasyonu: Köln,

42-47.

Shankland, David (2007) “Islam and Politics in Turkey: the 2007 Presidential Elections and Beyond,” Richard G White & Philip Robins (eds.), International Affaires, 83/2 Royal Institute of International Affaires: Oxford, 357-371.  

 

 


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